
まだ夜も明けきらない午前五時。
けたたましい目覚ましアラームの音で、彼の一日は始まる。
就職氷河期を勝ち抜け、なんとか中小企業へ入社できたものの、そこは泣く子も黙るブラック会社。
定時時間1時間前の早朝出勤は当たり前。夜は夜で、残業、残業、サービス残業。終電を逃して、結局オフィスの硬い椅子にお世話になることもしばしば……。
結果、それ相当の年になっても妻も子供も彼女もいない。
そんな彼の唯一の楽しみといえば、この秋から早朝に再放送されている昔話題になった某萌えアニメ。
今日もいつものようにお砂糖ミルクたっぷりのコーヒー片手にテレビをつけた彼の目に飛び込んできたのは、思いもよらない光景だった。
アスモデウス「ハ~イ、グッドモーニング。マイ チェリーボーイ♥」
画面いっぱいに映し出されたのは、シュールさが売りのオープニング映像でも主人公少女の病んだ笑顔でもなく、思わず吸い込まれそうになるほど白く美しいプリンとハリのある柔らかそうなバストのドアップだった。
生まれてこの方、後にも先にもこれ程の逸品は目にしたことがない。あまりの衝撃に、彼は口に含んだコーヒーを盛大に噴出した。
さらに、舐めあげるようにパーンしたカメラが映し出したのは、彼の理想そのものな絶世の美女。
アスモデウス「今夜12時。貴方の大事なだ~いじなチェリーを、奪いに参上しちゃいまっす。キレイに洗って、待っててねぇ♥」
意味深に告げられた予告と、セクシーに放たれた投げキッス攻撃で、一瞬にして撃沈。手にした熱々コーヒーが下半身を直撃していることにすら気づかないほど、彼は箱の中の怪盗に心を奪われた。
『美女怪盗現る!! 神出鬼没の華麗な手口!!』
その怪盗が突如として表舞台に現れたのは、約1か月前。
手紙、メール、テレビ、夢の中……、さまざまな形で怪盗予告をしては、予告時間ピッタリに現れて、どんな厳重な警備をもいとも簡単にすり抜け、必ずお目当ての品を盗んでいくという……。
しかも、その正体は○不二子も真っ青のナイスバディを持つかなりの美女との噂。
一説によれば、被害者は皆、こぞって怪盗の怪しい魅力に骨抜きにされ、その後の聴取もろくに進まないのだとかなんとか……。
最近では、自ら「美女怪盗に狙われたい!!」という男性が増え、社会問題にまで発展しているらしい……。
今、最も巷を賑わせているそんな大泥棒のNEWSなど、全く知りもしなかった完全社畜の彼。今日も元気にバリバリお仕事……というわけには、もちろんいかなかった。
普段のテキパキぶりが嘘のように、何一つ手につかない。会議も外回りも、寝ても覚めても脳裏によぎるのは今朝の麗しの彼女のことばかり。
ネットを漁っては、彼女の情報を隅から隅まで調べ上げ、大胆な予測を立てる記事に一喜一憂しては、今夜の期待に胸が高まり心拍数は急上昇。
そのあまりの豹変っぷりに、さすがのブラック会社も「仕事のし過ぎでおかしくなったのかもしれない」と思ったようで、珍しくサービス残業なしの定時退社が認められた。
そして、時刻は運命の午前0時まで、あと数十秒……。
刻一刻と近づくその瞬間を前に、彼は大きく深呼吸をした。
大丈夫!! 彼女を迎える準備は、すべて整っている。帰宅後、5回もシャワーを浴びたし、10回以上歯磨きもした。
散らかった部屋も大急ぎで片付け、掃除機、雑巾がけ、フローリングにはワックスまでかけた。
彼女のために、バラの花束を用意し、高級なシャンパンもいい頃合いに冷えている。
俺は今夜、とうとう大人になるのだ……。彼はそう、確信していた。
3……2……1……。時計の針がぴったりと重なり、次の瞬間、幸福の訪れを告げる携帯アラームが震え始めた。
慌てて、携帯を手に取る彼の耳元で、聞きなれない美しい声が囁いた。
アスモデウス「お待たせ……。いい子にして、待っててくれたぁ……?」
とろける様な甘い問いかけに、思わず何度もうなずく彼。
緊張のあまり小刻みに震える彼の肩に、そっと触れていた怪盗のしなやかな手が、スルスルと腕の先まで絡んでいく。
……と同時に、これまで体験したことのない感触が彼の二の腕を包んだ。吸い付くような肌触り、柔らかでいて、それでいて何とも言えない弾力に富んだ……。
気が付けば、彼は全神経を二の腕へと集中させていた。
彼の反応に気を良くしたのか、怪盗はさらにその豊満な肢体を密着させる。
「フワァッ!!」
思わず声を情けない声を漏らす彼。クスリと笑う怪盗……。
アスモデウス「可愛い……んふ。予告通り、貴方のチェリー、頂いていくわねぇ……♥」
そして、耳元へと吹きかけられた甘い吐息の興奮を最後に、彼の全てはゆっくりと夢の世界へと堕ちて行った。
薄れ行く意識の狭間、彼は確かに彼女の……その怪盗の姿を目撃していた。
豊満なバスト、キュッとくびれたウエスト、美しく流れるようなヒップライン……その洗練された肢体にピッタリと吸い付く、漆黒のボンテージスーツ。
少女のような清純さと魔性の妖しさを併せ持つ潤んだ瞳、高揚した頬とセクシーな唇、透けるような肌、月の光に淡く輝く艶のある髪……。
そして……そんな美しさの中に、一際強く力強さを表す立派な角……角!?
その瞬間、彼は彼女が決して手に入る存在ではないことを、悟った気がした……。
翌朝、目を覚ました彼は、昨夜と全く変化のない部屋の様子に一度は落胆し、そして下着に挟まれていた『グッバイ・マイ チェリーボーイ』という怪盗からのメッセージカードを見て、発狂せんばかりに喜び興奮し、さらに、カラカラに乾いた喉を潤そうと開いた冷蔵庫を見て、再び撃沈した。
一方その頃、魔王城では……。
アスモデウス「どう? ベルゼバブ。私が苦労して手に入れてきた幻の『山田さん家の限定チェリー』のお味はぁ……?」
ベルゼバブ「うま……。うま……」
アスモデウス「家族分しか作ってない特別なチェリーなんだぞぉ。まぁ、私としては、一人息子のチェリーも美味しそうだったけど……んふ。で、次は何食べたい??」
